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第58話 境界線を越えて
朝方。
あてがわれた船室のベッドで、人の気配に目が覚める。
ごそごそ。
掛布団が捲られて、やや冷たい空気が肌を刺す。
すぐに冷気の流入はなくなり、代わりにぬくいモノが侵入してきた。
薄目を開ければ、ほとんど白に近いプラチナブロンドが目に入る。
隣室で寝ているはずのニナが、俺のベッドに潜り込んできていた。
「むー」
収まりが悪いのか、しばらく胸元でモゾモゾと身じろぐ。
「むにゃ。すー」
寝やすい位置を探りあて、満足気な表情で寝息を立て始める。
やれやれ。
いつものことなので俺は気にせず、寝起きのよく回らない頭でこれまでの航海を回想していた。
今日で、航海が始まってから2週間が経過する。
クラーケン以降は概ね平穏が続いているが、途中1度だけ、でっかいトビウオのような海の魔物に襲われた。
しかしクラーケンと比べれば何ほどのこともなく。
捕獲して、みんなで美味しくいただいた。
そんなこんなで嵐に見舞われることもなく、マリア号は今日も穏やかな波間に揺れている。
――……!
睡眠と覚醒の狭間で、ぼーっとニナの頭部を眺めていると、甲板の方から微かに人の声が聞こえてきた。
それで完全に目が覚めてしまった。
ニナを起こさないように気を付けてベッドから降り、船室を出る。
廊下はバタバタと慌ただしい。
他にも何人かの船員が部屋を出て、甲板に向かっているようだ。
彼女らに続き、甲板へ繋がる階段を上った。
開け放たれた扉から甲板に出る。
まだ太陽の位置は低かったが、十分に明るい。
船員たち数人が進行方向を指差して、明るい表情で話している。
「なんかあったの?」
「あ、はい。ジパングが見えてきたんです」
「といっても、本島じゃなくて小さな離島なんですけどね」
言われ、目を凝らす。
なるほど。朝靄に混ざって、陸地のようなものが確かに見えた。
「ようやくか」
クラーケンに強襲されたり、結局海に飛び込むはめになったりしたが、終わってみれば感慨深い。
……いや、やっぱりそうでもないか。
ともかく。
いろいろと『かつての日本』に似たところのあるジパング。
楽しみにしておこう。
そうして竜輔は、図らずもミッドガルド大陸――十天神の領域から、一時的にしろ離脱を果たすことになる。
天空大陸アスガルド。
かの地は変わらず空にたゆたう。
大陸中央に位置する荘厳なる神の社、グラズヘイム神殿。
神殿全体が白い石材で造られているため、そこもまた例外なく白で覆われた広間だった。
奥には短い階段とその上に玉座があるが、その主たる『絶対神』ベルヴェルクは、今は不在だ。
その手前、玉座の階段を下った目の前には、真円を描く石造りの泉があった。
直径4メートルほどの泉を満たす水は透明で、そう深くない底が見えている。
空席の玉座を横目に、泉を囲むように居並ぶ、8柱の神がそこにいた。
最も古き神、十天神。
第3位階『運命神』フォルトゥナ。
第4位階『破壊神』ルドラ。
第5位階『賢神』ザカリエル。
第6位階『雷神』ファレトリウス。
第7位階『炎神』ヘメラ。
第8位階『水神』イシュ。
第9位階『呪神』ヨナルデパ。
第10位階『戯神』ロキ。
アスガルドの頂点に君臨する神々、十天神のほとんど全てが今ここに集結していた。
十天神が集まる場を設ける機会は、決して少なくはない。
それでも10年に1度あるかないかだが、無きに等しい神々の寿命を考えれば、むしろ多いといっていい。
しかし神とは、根本的に個人主義の塊である。
それ故、彼らが素直に参集し、過半数以上が出席することは稀であった。
それこそ、1000年に1度あるかないか、という程度には。
「で、今回の『候補』はどんな人物なんですか?」
楽しげに声を発したのは、少年のような面差しの、第10位階『戯神』ロキ。
無邪気な笑顔を浮かべているが、その実、何を考えているのか分からない。
あるいは、何も考えていないのかもしれないが。
その発言に、関心を抱く神もいれば、面倒臭げに欠伸をする神もいる。
「今回の『候補』は、5人います」
問いに答えたのは、第3位階『運命神』フォルトゥナ。
第1以外の位階はあってないようなものだが、1位と2位が不在の今、形の上では彼女が取り仕切ることになる。
「ほっほ。5人とな。此度はまた随分と豊作じゃのう」
白く長い顎鬚を弄びながら、第5位階『賢神』ザカリエルは、好々爺めいた笑い声を上げる。
十天神が注目する中、彼らが覗き込む泉が薄青く発光した。
鏡に映すかのように、水面に5人の人物――『候補』の姿が浮かび上がる。
「ヒッヒヒヒ! ひひひ『姫巫女』キルシマイアですかぁ! いい、イイですね。彼女はイイ。ぼかぁ、推しますよ。ヒヒ」
水面に映る1人の少女を指し、異常に痩せこけ、顔に呪術的な刺青をした男神、第9位階『呪神』ヨナルデパが狂笑する。
自身の加護を与えたキルシマイアを穢されたようで、『運命神』フォルトゥナはいつもの微笑みこそ崩さなかったが、若干眉根を寄せていた。
その様子にヨナルデパは「ヒヒ。これは失礼」と引き下がる。
「『勇者』オーフェス。彼は本当に『候補』らしい候補ですよね」
『戯神』ロキが注目したのは、安定感のある『勇者』オーフェスであった。
「やだよ。こいつ暴力性が足りねーもん。つまんねーよ」
年若い少女のような高い声音が、独自の基準でオーフェスを切り捨てる。
声の主は、人間でいえば10代中盤にも見える、美しいというよりは愛くるしい容貌の女神。
「暴力性ですか」
第4位階『破壊神』ルドラの物騒な言葉に、ロキは苦笑する。
勇者を否定した破壊の女神は、別の『候補』を指差した。
「魔人四魔将軍『力将』ガルデニシア。こいつとかガチ」
「元、『力将』です。でも彼女、最近は大人しいようですがね。悪くはないですが……ヘメラさんはどう思います?」
ただ1人あぐらをかいて、いかにも怠そうにしている女神は、第7位階『炎神』ヘメラ。
ロキに話し掛けられ、嫌そうに口元を歪める。
「こっち振るなよめんどくせー……。あーあれ『白光』の。白竜人の。アレでいいじゃん。前も白竜人だったしさー」
極めて興味なさげに、水面に映る12竜騎士筆頭を顎で示した。
「お、ヘメラ。テメーにしちゃ悪くないな? オーレリアもケッコーいい」
「あーそー。よかったね」
ヘメラは破壊神のお褒めの言葉にぞんざいに応じ、気だるげに頬杖をついた。
「なるほど。ではファレトリウスさんはどうです?」
我関せず、と瞑目していた第6位階『雷神』ファレトリウスにも、ロキは話題を振ってみる。
「全て聖上の御心のままに」
「ですよねー」
思った通りの返答に、ロキは苦笑を深めることになった。
「ハッ。聖上聖上聖上聖上。相っ変わらずツマンナイ野郎だなー。あんなキ○ガイのどこがいいんだよ」
『破壊神』ルドラの見下すような視線に、『雷神』ファレトリウスは瞼を上げて睨みを返す。
「貴様……聖上を愚弄する気か」
バチ。バチチ。
ファレトリウスの感情の昂ぶりに併せて、その周囲に放電現象が発生する。
「だったらどうする?」
「殺す」
「あひゃらひゃら! なんだ面白いことも言えんじゃん! やれるもんならやってみろよ! やーいやーい。ベルヴェルクのばーか」
「ふざけるなこの××が! 貴様のような○○○○○が聖上を嘲弄するなど! 貴様の【ピーッ】をもいで【自主規制】につっこんでやろうか!」
「んなっ……!」
普段は堅物だが、頭に血が上ると下品な言葉が口をついて出るのが、ファレトリウスであった。
「て、テメー! エロいこと言ってんじゃねーよ! おま、そ、そういうのはアレだテメーコラ。エロ魔神!」
顔を真っ赤にして、語彙も乏しく噛みつくルドラ。
「ルドラさん……相変わらず下ネタは苦手なんですね」
「ばっ、ロキ、てめ、べべ、別に苦手じゃねぇよ。下ネタ余裕だよこの野郎。うんこうんこビチグソうんこ!」
「馬鹿は貴様だ。この場合下ネタというのは性的表現に決まっているだろうがこの【ズキューン!】。そんなに汚物が好きなら、貴様の汚物を【チョメチョメ】」
「だぁーっ! やめろバカ! マジで殺すぞ変態野郎! テメーみたいな変態エロ魔神にリスペクトされてるベルヴェルクもさぞ――」
ガガーンッ!!
ファレトリウスから発せられた雷光の一撃を、ルドラが右手を振るって弾き飛ばした。
流れ弾を受けた壁面が、轟音と共に崩れ落ちる。
「……」
「……」
無表情に怒りを滾らせるファレトリウスに、歯を剥き出して感情を露わに睨み付けるルドラ。
他の神は愉快げに観察するか傍観するだけで、決して止めようとはしなかった。
カツーンッ!!
『運命神』フォルトゥナを除いて。
杖で強く床を打つ音に、睨み合う両者は意気を逸らされる。
「そこまでにして下さい」
普段と変わらぬように見えて、しかし妙な威圧感を覚えるフォルトゥナの微笑みに、両者は互いに矛を収める。
「……ふんっだっ」
「了解した」
つまらなそうに鼻を鳴らすルドラと、素直に聞き入れ、再び目を閉じて黙り込むファレトリウス。
フォルトゥナは頭痛を耐えるかのように、軽く額に手を添えている。
「ロキ。貴方もさり気なく争いを仕向けないように」
「なんのことやら」
「ほっほっほ。元気そうで何よりじゃ」
舌を出しておどけるロキと、呵々と笑って済ませるザカリエルに、フォルトゥナは内心でため息をついた。
「ところでー。気になっていたんですけどー」
空気を読まず、語尾を伸ばす独特の口調で発言した女神は、第8位階『水神』イシュ。
糸のように細いたれ目と、おっとりとした口調が空気を和ませる。
「このー、最後の1人は誰ですかー?」
『姫巫女』キルシマイア。
『勇者』オーフェス。
『力将』ガルデニシア。
『白光の』オーレリア。
そして水面に映る5人のうち、未だ言及されていない最後の1人。
『黒い髪に金の瞳を持つ青年』を見て、『水神』イシュは首を傾げる。
「彼はリュースケ・ホウリューインといって、異世界からの訪問者ですよ」
「……ロキ。何故貴方が知っているのですか?」
「さあ? なぜでしょう」
ロキは、フォルトゥナの問いに答える気はないようだ。
「ほ。異世界人とな。前回の儀にも1人おったが……此度は『候補』か」
『賢神』ザカリエルが白い眉に隠された瞳を見開いて、水面に映る青年を見詰める。
「はー。それでー、彼は『候補』たり得る人物なんですかー?」
「ガルデニシアを倒し、堕ちた神シヴァも下した。彼はなかなか、ダークホース的存在だと思いますよ? ね、フォルトゥナさん」
「はい。そうですね」
ロキがそこまで竜輔に興味を持っていたことに対し、フォルトゥナはしかし、もう驚かなかった。
「シヴァぁ……? 誰だっけそれ」
腰に手を当てながら首を傾けるルドラ。
「おいおい一応オメーの眷属だったろうが……まーどうでもいいけど」
ヘメラが女神らしからず、だらしなく床にへたばりながら中途半端な突っ込みを入れる。
「確かルドラさんは、彼のことを『ポチ』と呼んでいましたね」
「ああー! ポチな! 羽もいで落としたヤツな! なんだよ最初からポチって言えよ。あいつシヴァって名前だったのか」
「いや知っといてやれよ名前くらい……」
ヘメラが小声で呟くが、ルドラの耳には届かない。
「私は彼――リュースケを推薦します」
フォルトゥナの宣言に、その場のほぼ全員――ロキ以外が瞠目する。
「へー。マジかよ。巫女じゃねーの? ふーん?」
「ヒヒ! い、意外ですねぇ。ま、まあ、それはそれで興味深い……」
「ふむ。ぬしがそう言うなら、しばらく気にかけてみようかの」
「ま、気が向いたら見てみるわ。気が向いたらね」
「聖上次第だ」
「そうですねー。異世界人というのもー、面白そうですねー」
「ええ、本当に。『運命神』が選んだのですから、ね」
フォルトゥナ以外の7柱の反応を、ロキが満面の笑みで締めくくる。
「……あくまで、彼とて『候補』に過ぎま――」
唐突に、フォルトゥナが言葉を途切れさせる。
そして僅かながら動揺を見せた。
「そんな、どうして」
「? どしたー?」
ルドラが声を掛けるが、フォルトゥナは答えず、杖を泉に向けた。
水面に波紋が広がり、5人の映像が幻のように消え去る。
その後、泉がやや水色に染まったように見えた。
「そういう、ことですか」
それを見て、フォルトゥナは安堵の吐息を零す。
「ヒ。これは……う、海ですか? し、しかし何もない海面……?」
「ふむ。どういうことじゃ?」
何もない海面を映し出すという奇行に、ザカリエルが皆を代表して疑問を呈した。
「リュースケの存在を、ミッドガルドから感じなくなりました。これは彼の残滓を追った結果です」
「なるほど」
いちはやく、ロキが頷いて微笑む。
「あー? わけわかんねぇし。感じねぇなら死んだんじゃねーの?」
「そう懸念しましたが。どうやらジパングへ渡ったようです」
「あ、そう。そういうこと」
ルドラも理解し、いかにも面白くなさそうに舌打ちする。
この世界ミッドガルドで、十天神の監視が行き届かない場所がひとつだけある。
それがジパング。大陸より遥か東の列島だ。
ジパングだけは、この場にいるどの神であろうと干渉することはできなかった。
「ふふふ」
思わずといった様子で、ロキが少しばかり声に出して笑う。
「ヒッヒヒヒ! フォ、フォルトゥナが着目するわけですねぇ」
『呪神』ヨナルデパもつられるように引き攣った笑い声を上げた。
「ええ。我々が目を向けようとした矢先に、掻い潜るようにジパングへ、とは。よほど面白い星の下に生まれているようですね」
「ま、そう言われりゃな……どうでもいいけど」
「んだよ。見ようにも見れねーじゃん。あたしはもー帰っかんな。あと変態は死ね」
雷神に向けて親指で首を斬るジェスチャーを向けてから、ルドラは勝手にその場を去った。
「……これ以上留まる必要は無いようだな」
ピシャーン!
そうしてファレトリウスが雷鳴と共に去り行くと、完全にお開きのムードに包まれる。
「やれやれ。何年経っても勝手な奴らじゃ」
「まー神だから……かえんのだりぃ。今日ここで寝よ……」
「ぬしも大概自由じゃがな」
「ヒヒ! でで、ではボクも失礼しますよ」
ザカリエルとヨナルデパが広間を出ると、フォルトゥナとロキ、そして寝息をたて始めたヘメラだけが残された。
「ふふふ。彼がジパングから戻ってくるのを、静かに待つしかないようですね」
「はい」
ロキは徹頭徹尾笑顔を絶やすことなく。
フォルトゥナも、仄かな微笑みを浮かべ続けていた。
どちらも、その表情からは内心が計り知れない。
「いや、面白い。本当に面白いですよ。彼も――貴女もね。ははははは!」
今日初めてあからさまに大きく笑い、ロキは広間を後にした。
「……」
フォルトゥナは無言でそれを見送る。
広間に残響するロキの笑い声は――お世辞にも、無邪気とは言えないものだった。
ジパングの中心、京の都。
朝堂院と呼ばれる朝廷の正庁に、ジパングの導き手、帝は座す。
大別して3種からなる殿舎のうち、大極殿の高御座――いわゆる『玉座』に、彼女はいた。
帝の姿を隠すはずの簾は、今は下りていない。
畏れ多くも高御座に『座らず』、小さな身体をぐてりと伸ばして寝転がっている少女が一人。
黒く長い髪は光沢があり美しいが、あまり手入れをしていないのか、ところどころでぴょこぴょこと跳ねている。
くりくりとした愛らしい瞳は、やる気なさげに半分程度閉じられていた。
あわや十二単か、と思われるような、藍色に染まった華美な着物を幾重にも身に纏う。
まだ年端もいかぬ彼女こそ、ジパングの王――帝である。
その御前で膝をつき、目の前の現実を認めたくない、とばかりに眉間を揉みほぐす男の名は足利義海。
彼は左大臣であり、宮中の実質的な最高責任者だ。
女と見紛う美貌を持つ義海は、まだ25歳と非常に若い。
否。
役職を考えれば、『異常に』若いと言っても過言ではないだろう。
そんな彼は真面目すぎるが故に、この帝の下では一番の苦労人である。
「帝。尾張国の織田信亜公の官位について――」
「まかせるー」
最後まで言わせてすらもらえない。
義海の額に青筋が浮かんだ。
「……『鬼』の島津の動きですが――」
「ねむねむ……」
「帝! 真面目にお聞き下さい!」
声を荒げて義海が立ち上がる。
「えー。めんどくさーい。もう義海、関白やってよ」
ごろごろと左右に転がりながら、帝が投げやりに言い放つ。
関白とは、帝を補佐して執政を行う官位だが、実際には執政の全てを取り仕切ることになる。
今のジパングに、関白は存在しなかった。
「なりません! 帝はやればできる子なのですから、ご自分でご判断下さい!」
「やあのやあの! お仕事やあのー!」
「帝! ――ごぶぅっ!?」
帝に詰め寄ろうとした義海が、突如何者かの飛び蹴りを腹に受けて大きく吹っ飛んだ。
「帝ちゃんをいじめるヤツは、この義月が許さん!」
ガシャン。
具足の擦れる音が鳴る。
いつの間に現れたのか。
倒れ伏す義海を「びしり!」と指さす、長身の凛々しい女性がいた。
背中まで伸びる癖のない長髪が、サラリと揺れる。
兜こそ被っていないものの、その身を髪と同色――黒漆塗の武者装束で覆っていた。
細身の身体のどこにそんな力があるのか、酷く重そうな具足である。
「わーわー。いいぞ義月ー」
立ち上がり、小さな拳を振り上げて応援する帝。
応援を受ける、義月と呼ばれた武者装束の女もまた、若かった。
義海と瓜二つの容姿を持つこの女性の名は、足利義月。
ジパングの軍事関係の責任者、征夷大将軍である。
そして義海の双子の姉でもある。
おそらく彼女、征夷大将軍こそがジパング最強の侍……のハズだ。
「悪は滅びた。帝ちゃん。あんみつ食べにいこうか」
「わーい」
お友達感覚で手を繋ぎ、にこにことその場を後にしようとする2人。
その背後で、義海がゆらりと立ち上がる。
「キ・サ・マ・ラァァァァア!!」
「うわっ。義海がキレた」
「にげろー!」
「謹んで拝命!」
「待てぇぇい!」
般若の形相で追いすがる義海から、帝を抱きかかえて義月は逃げ出した。
広大な宮中を走り回る彼らを、他の官吏は「今日もここは平和だなあ」と温かく見守る。
「あ」
「ん? どうした帝ちゃん」
おふざけといえど人間離れした速度で走りながら、義月が問う。
帝は楽しげな表情から一転、珍しく真顔で西の方角を見つめている。
「なんか今、すごいのがジパングにきたなー」
「すごいの?」
「うん…………ま、いっか」
「まあいいやね」
真面目な雰囲気は3秒で霧散した。
「よかないわぁぁ! 帝! 何ですかそのすごいのってのは!」
「きゃははは! しーらなーい!」
「帝ぉぉぉ!」
軽く流す帝と征夷大将軍に対し、左大臣は大いに頭を悩ませるのであった。
朝の潮風が甲板を吹き抜ける。
島が見えたとはいえ、今すぐ港に到着するというわけでもない。
もう少し惰眠を貪ろう、と踵を返したところで、視界の端に赤色を見つける。
「マリ――」
ア。
と声を掛ける寸前で躊躇った。
マリアは何やら珍しく真剣な顔で、桃色の宝石をつまむように眼前に掲げている。
「――それなら……ええ……わかってる。仕方ないわね。それじゃ、また」
ブツブツと一人声を発して、宝石をポケットにしまい込んだ。
「何してんだ?」
「あら、リュースケ君。丁度よかった。みんなを船長室に集めてくれる?」
「こんな早朝からか。緊急事態?」
「まあ一刻を争うほどじゃないけど、できるだけ早く相談したいのよ」
マリアはばつが悪そうに後頭部に手をやる。
「どうも今九州はマズイみたい。悪いけど、別の港につけることになりそう」
ジパングを目の前にして、また厄介な問題が立ち上がろうとしてる……のか?
あてがわれた船室のベッドで、人の気配に目が覚める。
ごそごそ。
掛布団が捲られて、やや冷たい空気が肌を刺す。
すぐに冷気の流入はなくなり、代わりにぬくいモノが侵入してきた。
薄目を開ければ、ほとんど白に近いプラチナブロンドが目に入る。
隣室で寝ているはずのニナが、俺のベッドに潜り込んできていた。
「むー」
収まりが悪いのか、しばらく胸元でモゾモゾと身じろぐ。
「むにゃ。すー」
寝やすい位置を探りあて、満足気な表情で寝息を立て始める。
やれやれ。
いつものことなので俺は気にせず、寝起きのよく回らない頭でこれまでの航海を回想していた。
今日で、航海が始まってから2週間が経過する。
クラーケン以降は概ね平穏が続いているが、途中1度だけ、でっかいトビウオのような海の魔物に襲われた。
しかしクラーケンと比べれば何ほどのこともなく。
捕獲して、みんなで美味しくいただいた。
そんなこんなで嵐に見舞われることもなく、マリア号は今日も穏やかな波間に揺れている。
――……!
睡眠と覚醒の狭間で、ぼーっとニナの頭部を眺めていると、甲板の方から微かに人の声が聞こえてきた。
それで完全に目が覚めてしまった。
ニナを起こさないように気を付けてベッドから降り、船室を出る。
廊下はバタバタと慌ただしい。
他にも何人かの船員が部屋を出て、甲板に向かっているようだ。
彼女らに続き、甲板へ繋がる階段を上った。
開け放たれた扉から甲板に出る。
まだ太陽の位置は低かったが、十分に明るい。
船員たち数人が進行方向を指差して、明るい表情で話している。
「なんかあったの?」
「あ、はい。ジパングが見えてきたんです」
「といっても、本島じゃなくて小さな離島なんですけどね」
言われ、目を凝らす。
なるほど。朝靄に混ざって、陸地のようなものが確かに見えた。
「ようやくか」
クラーケンに強襲されたり、結局海に飛び込むはめになったりしたが、終わってみれば感慨深い。
……いや、やっぱりそうでもないか。
ともかく。
いろいろと『かつての日本』に似たところのあるジパング。
楽しみにしておこう。
そうして竜輔は、図らずもミッドガルド大陸――十天神の領域から、一時的にしろ離脱を果たすことになる。
天空大陸アスガルド。
かの地は変わらず空にたゆたう。
大陸中央に位置する荘厳なる神の社、グラズヘイム神殿。
神殿全体が白い石材で造られているため、そこもまた例外なく白で覆われた広間だった。
奥には短い階段とその上に玉座があるが、その主たる『絶対神』ベルヴェルクは、今は不在だ。
その手前、玉座の階段を下った目の前には、真円を描く石造りの泉があった。
直径4メートルほどの泉を満たす水は透明で、そう深くない底が見えている。
空席の玉座を横目に、泉を囲むように居並ぶ、8柱の神がそこにいた。
最も古き神、十天神。
第3位階『運命神』フォルトゥナ。
第4位階『破壊神』ルドラ。
第5位階『賢神』ザカリエル。
第6位階『雷神』ファレトリウス。
第7位階『炎神』ヘメラ。
第8位階『水神』イシュ。
第9位階『呪神』ヨナルデパ。
第10位階『戯神』ロキ。
アスガルドの頂点に君臨する神々、十天神のほとんど全てが今ここに集結していた。
十天神が集まる場を設ける機会は、決して少なくはない。
それでも10年に1度あるかないかだが、無きに等しい神々の寿命を考えれば、むしろ多いといっていい。
しかし神とは、根本的に個人主義の塊である。
それ故、彼らが素直に参集し、過半数以上が出席することは稀であった。
それこそ、1000年に1度あるかないか、という程度には。
「で、今回の『候補』はどんな人物なんですか?」
楽しげに声を発したのは、少年のような面差しの、第10位階『戯神』ロキ。
無邪気な笑顔を浮かべているが、その実、何を考えているのか分からない。
あるいは、何も考えていないのかもしれないが。
その発言に、関心を抱く神もいれば、面倒臭げに欠伸をする神もいる。
「今回の『候補』は、5人います」
問いに答えたのは、第3位階『運命神』フォルトゥナ。
第1以外の位階はあってないようなものだが、1位と2位が不在の今、形の上では彼女が取り仕切ることになる。
「ほっほ。5人とな。此度はまた随分と豊作じゃのう」
白く長い顎鬚を弄びながら、第5位階『賢神』ザカリエルは、好々爺めいた笑い声を上げる。
十天神が注目する中、彼らが覗き込む泉が薄青く発光した。
鏡に映すかのように、水面に5人の人物――『候補』の姿が浮かび上がる。
「ヒッヒヒヒ! ひひひ『姫巫女』キルシマイアですかぁ! いい、イイですね。彼女はイイ。ぼかぁ、推しますよ。ヒヒ」
水面に映る1人の少女を指し、異常に痩せこけ、顔に呪術的な刺青をした男神、第9位階『呪神』ヨナルデパが狂笑する。
自身の加護を与えたキルシマイアを穢されたようで、『運命神』フォルトゥナはいつもの微笑みこそ崩さなかったが、若干眉根を寄せていた。
その様子にヨナルデパは「ヒヒ。これは失礼」と引き下がる。
「『勇者』オーフェス。彼は本当に『候補』らしい候補ですよね」
『戯神』ロキが注目したのは、安定感のある『勇者』オーフェスであった。
「やだよ。こいつ暴力性が足りねーもん。つまんねーよ」
年若い少女のような高い声音が、独自の基準でオーフェスを切り捨てる。
声の主は、人間でいえば10代中盤にも見える、美しいというよりは愛くるしい容貌の女神。
「暴力性ですか」
第4位階『破壊神』ルドラの物騒な言葉に、ロキは苦笑する。
勇者を否定した破壊の女神は、別の『候補』を指差した。
「魔人四魔将軍『力将』ガルデニシア。こいつとかガチ」
「元、『力将』です。でも彼女、最近は大人しいようですがね。悪くはないですが……ヘメラさんはどう思います?」
ただ1人あぐらをかいて、いかにも怠そうにしている女神は、第7位階『炎神』ヘメラ。
ロキに話し掛けられ、嫌そうに口元を歪める。
「こっち振るなよめんどくせー……。あーあれ『白光』の。白竜人の。アレでいいじゃん。前も白竜人だったしさー」
極めて興味なさげに、水面に映る12竜騎士筆頭を顎で示した。
「お、ヘメラ。テメーにしちゃ悪くないな? オーレリアもケッコーいい」
「あーそー。よかったね」
ヘメラは破壊神のお褒めの言葉にぞんざいに応じ、気だるげに頬杖をついた。
「なるほど。ではファレトリウスさんはどうです?」
我関せず、と瞑目していた第6位階『雷神』ファレトリウスにも、ロキは話題を振ってみる。
「全て聖上の御心のままに」
「ですよねー」
思った通りの返答に、ロキは苦笑を深めることになった。
「ハッ。聖上聖上聖上聖上。相っ変わらずツマンナイ野郎だなー。あんなキ○ガイのどこがいいんだよ」
『破壊神』ルドラの見下すような視線に、『雷神』ファレトリウスは瞼を上げて睨みを返す。
「貴様……聖上を愚弄する気か」
バチ。バチチ。
ファレトリウスの感情の昂ぶりに併せて、その周囲に放電現象が発生する。
「だったらどうする?」
「殺す」
「あひゃらひゃら! なんだ面白いことも言えんじゃん! やれるもんならやってみろよ! やーいやーい。ベルヴェルクのばーか」
「ふざけるなこの××が! 貴様のような○○○○○が聖上を嘲弄するなど! 貴様の【ピーッ】をもいで【自主規制】につっこんでやろうか!」
「んなっ……!」
普段は堅物だが、頭に血が上ると下品な言葉が口をついて出るのが、ファレトリウスであった。
「て、テメー! エロいこと言ってんじゃねーよ! おま、そ、そういうのはアレだテメーコラ。エロ魔神!」
顔を真っ赤にして、語彙も乏しく噛みつくルドラ。
「ルドラさん……相変わらず下ネタは苦手なんですね」
「ばっ、ロキ、てめ、べべ、別に苦手じゃねぇよ。下ネタ余裕だよこの野郎。うんこうんこビチグソうんこ!」
「馬鹿は貴様だ。この場合下ネタというのは性的表現に決まっているだろうがこの【ズキューン!】。そんなに汚物が好きなら、貴様の汚物を【チョメチョメ】」
「だぁーっ! やめろバカ! マジで殺すぞ変態野郎! テメーみたいな変態エロ魔神にリスペクトされてるベルヴェルクもさぞ――」
ガガーンッ!!
ファレトリウスから発せられた雷光の一撃を、ルドラが右手を振るって弾き飛ばした。
流れ弾を受けた壁面が、轟音と共に崩れ落ちる。
「……」
「……」
無表情に怒りを滾らせるファレトリウスに、歯を剥き出して感情を露わに睨み付けるルドラ。
他の神は愉快げに観察するか傍観するだけで、決して止めようとはしなかった。
カツーンッ!!
『運命神』フォルトゥナを除いて。
杖で強く床を打つ音に、睨み合う両者は意気を逸らされる。
「そこまでにして下さい」
普段と変わらぬように見えて、しかし妙な威圧感を覚えるフォルトゥナの微笑みに、両者は互いに矛を収める。
「……ふんっだっ」
「了解した」
つまらなそうに鼻を鳴らすルドラと、素直に聞き入れ、再び目を閉じて黙り込むファレトリウス。
フォルトゥナは頭痛を耐えるかのように、軽く額に手を添えている。
「ロキ。貴方もさり気なく争いを仕向けないように」
「なんのことやら」
「ほっほっほ。元気そうで何よりじゃ」
舌を出しておどけるロキと、呵々と笑って済ませるザカリエルに、フォルトゥナは内心でため息をついた。
「ところでー。気になっていたんですけどー」
空気を読まず、語尾を伸ばす独特の口調で発言した女神は、第8位階『水神』イシュ。
糸のように細いたれ目と、おっとりとした口調が空気を和ませる。
「このー、最後の1人は誰ですかー?」
『姫巫女』キルシマイア。
『勇者』オーフェス。
『力将』ガルデニシア。
『白光の』オーレリア。
そして水面に映る5人のうち、未だ言及されていない最後の1人。
『黒い髪に金の瞳を持つ青年』を見て、『水神』イシュは首を傾げる。
「彼はリュースケ・ホウリューインといって、異世界からの訪問者ですよ」
「……ロキ。何故貴方が知っているのですか?」
「さあ? なぜでしょう」
ロキは、フォルトゥナの問いに答える気はないようだ。
「ほ。異世界人とな。前回の儀にも1人おったが……此度は『候補』か」
『賢神』ザカリエルが白い眉に隠された瞳を見開いて、水面に映る青年を見詰める。
「はー。それでー、彼は『候補』たり得る人物なんですかー?」
「ガルデニシアを倒し、堕ちた神シヴァも下した。彼はなかなか、ダークホース的存在だと思いますよ? ね、フォルトゥナさん」
「はい。そうですね」
ロキがそこまで竜輔に興味を持っていたことに対し、フォルトゥナはしかし、もう驚かなかった。
「シヴァぁ……? 誰だっけそれ」
腰に手を当てながら首を傾けるルドラ。
「おいおい一応オメーの眷属だったろうが……まーどうでもいいけど」
ヘメラが女神らしからず、だらしなく床にへたばりながら中途半端な突っ込みを入れる。
「確かルドラさんは、彼のことを『ポチ』と呼んでいましたね」
「ああー! ポチな! 羽もいで落としたヤツな! なんだよ最初からポチって言えよ。あいつシヴァって名前だったのか」
「いや知っといてやれよ名前くらい……」
ヘメラが小声で呟くが、ルドラの耳には届かない。
「私は彼――リュースケを推薦します」
フォルトゥナの宣言に、その場のほぼ全員――ロキ以外が瞠目する。
「へー。マジかよ。巫女じゃねーの? ふーん?」
「ヒヒ! い、意外ですねぇ。ま、まあ、それはそれで興味深い……」
「ふむ。ぬしがそう言うなら、しばらく気にかけてみようかの」
「ま、気が向いたら見てみるわ。気が向いたらね」
「聖上次第だ」
「そうですねー。異世界人というのもー、面白そうですねー」
「ええ、本当に。『運命神』が選んだのですから、ね」
フォルトゥナ以外の7柱の反応を、ロキが満面の笑みで締めくくる。
「……あくまで、彼とて『候補』に過ぎま――」
唐突に、フォルトゥナが言葉を途切れさせる。
そして僅かながら動揺を見せた。
「そんな、どうして」
「? どしたー?」
ルドラが声を掛けるが、フォルトゥナは答えず、杖を泉に向けた。
水面に波紋が広がり、5人の映像が幻のように消え去る。
その後、泉がやや水色に染まったように見えた。
「そういう、ことですか」
それを見て、フォルトゥナは安堵の吐息を零す。
「ヒ。これは……う、海ですか? し、しかし何もない海面……?」
「ふむ。どういうことじゃ?」
何もない海面を映し出すという奇行に、ザカリエルが皆を代表して疑問を呈した。
「リュースケの存在を、ミッドガルドから感じなくなりました。これは彼の残滓を追った結果です」
「なるほど」
いちはやく、ロキが頷いて微笑む。
「あー? わけわかんねぇし。感じねぇなら死んだんじゃねーの?」
「そう懸念しましたが。どうやらジパングへ渡ったようです」
「あ、そう。そういうこと」
ルドラも理解し、いかにも面白くなさそうに舌打ちする。
この世界ミッドガルドで、十天神の監視が行き届かない場所がひとつだけある。
それがジパング。大陸より遥か東の列島だ。
ジパングだけは、この場にいるどの神であろうと干渉することはできなかった。
「ふふふ」
思わずといった様子で、ロキが少しばかり声に出して笑う。
「ヒッヒヒヒ! フォ、フォルトゥナが着目するわけですねぇ」
『呪神』ヨナルデパもつられるように引き攣った笑い声を上げた。
「ええ。我々が目を向けようとした矢先に、掻い潜るようにジパングへ、とは。よほど面白い星の下に生まれているようですね」
「ま、そう言われりゃな……どうでもいいけど」
「んだよ。見ようにも見れねーじゃん。あたしはもー帰っかんな。あと変態は死ね」
雷神に向けて親指で首を斬るジェスチャーを向けてから、ルドラは勝手にその場を去った。
「……これ以上留まる必要は無いようだな」
ピシャーン!
そうしてファレトリウスが雷鳴と共に去り行くと、完全にお開きのムードに包まれる。
「やれやれ。何年経っても勝手な奴らじゃ」
「まー神だから……かえんのだりぃ。今日ここで寝よ……」
「ぬしも大概自由じゃがな」
「ヒヒ! でで、ではボクも失礼しますよ」
ザカリエルとヨナルデパが広間を出ると、フォルトゥナとロキ、そして寝息をたて始めたヘメラだけが残された。
「ふふふ。彼がジパングから戻ってくるのを、静かに待つしかないようですね」
「はい」
ロキは徹頭徹尾笑顔を絶やすことなく。
フォルトゥナも、仄かな微笑みを浮かべ続けていた。
どちらも、その表情からは内心が計り知れない。
「いや、面白い。本当に面白いですよ。彼も――貴女もね。ははははは!」
今日初めてあからさまに大きく笑い、ロキは広間を後にした。
「……」
フォルトゥナは無言でそれを見送る。
広間に残響するロキの笑い声は――お世辞にも、無邪気とは言えないものだった。
ジパングの中心、京の都。
朝堂院と呼ばれる朝廷の正庁に、ジパングの導き手、帝は座す。
大別して3種からなる殿舎のうち、大極殿の高御座――いわゆる『玉座』に、彼女はいた。
帝の姿を隠すはずの簾は、今は下りていない。
畏れ多くも高御座に『座らず』、小さな身体をぐてりと伸ばして寝転がっている少女が一人。
黒く長い髪は光沢があり美しいが、あまり手入れをしていないのか、ところどころでぴょこぴょこと跳ねている。
くりくりとした愛らしい瞳は、やる気なさげに半分程度閉じられていた。
あわや十二単か、と思われるような、藍色に染まった華美な着物を幾重にも身に纏う。
まだ年端もいかぬ彼女こそ、ジパングの王――帝である。
その御前で膝をつき、目の前の現実を認めたくない、とばかりに眉間を揉みほぐす男の名は足利義海。
彼は左大臣であり、宮中の実質的な最高責任者だ。
女と見紛う美貌を持つ義海は、まだ25歳と非常に若い。
否。
役職を考えれば、『異常に』若いと言っても過言ではないだろう。
そんな彼は真面目すぎるが故に、この帝の下では一番の苦労人である。
「帝。尾張国の織田信亜公の官位について――」
「まかせるー」
最後まで言わせてすらもらえない。
義海の額に青筋が浮かんだ。
「……『鬼』の島津の動きですが――」
「ねむねむ……」
「帝! 真面目にお聞き下さい!」
声を荒げて義海が立ち上がる。
「えー。めんどくさーい。もう義海、関白やってよ」
ごろごろと左右に転がりながら、帝が投げやりに言い放つ。
関白とは、帝を補佐して執政を行う官位だが、実際には執政の全てを取り仕切ることになる。
今のジパングに、関白は存在しなかった。
「なりません! 帝はやればできる子なのですから、ご自分でご判断下さい!」
「やあのやあの! お仕事やあのー!」
「帝! ――ごぶぅっ!?」
帝に詰め寄ろうとした義海が、突如何者かの飛び蹴りを腹に受けて大きく吹っ飛んだ。
「帝ちゃんをいじめるヤツは、この義月が許さん!」
ガシャン。
具足の擦れる音が鳴る。
いつの間に現れたのか。
倒れ伏す義海を「びしり!」と指さす、長身の凛々しい女性がいた。
背中まで伸びる癖のない長髪が、サラリと揺れる。
兜こそ被っていないものの、その身を髪と同色――黒漆塗の武者装束で覆っていた。
細身の身体のどこにそんな力があるのか、酷く重そうな具足である。
「わーわー。いいぞ義月ー」
立ち上がり、小さな拳を振り上げて応援する帝。
応援を受ける、義月と呼ばれた武者装束の女もまた、若かった。
義海と瓜二つの容姿を持つこの女性の名は、足利義月。
ジパングの軍事関係の責任者、征夷大将軍である。
そして義海の双子の姉でもある。
おそらく彼女、征夷大将軍こそがジパング最強の侍……のハズだ。
「悪は滅びた。帝ちゃん。あんみつ食べにいこうか」
「わーい」
お友達感覚で手を繋ぎ、にこにことその場を後にしようとする2人。
その背後で、義海がゆらりと立ち上がる。
「キ・サ・マ・ラァァァァア!!」
「うわっ。義海がキレた」
「にげろー!」
「謹んで拝命!」
「待てぇぇい!」
般若の形相で追いすがる義海から、帝を抱きかかえて義月は逃げ出した。
広大な宮中を走り回る彼らを、他の官吏は「今日もここは平和だなあ」と温かく見守る。
「あ」
「ん? どうした帝ちゃん」
おふざけといえど人間離れした速度で走りながら、義月が問う。
帝は楽しげな表情から一転、珍しく真顔で西の方角を見つめている。
「なんか今、すごいのがジパングにきたなー」
「すごいの?」
「うん…………ま、いっか」
「まあいいやね」
真面目な雰囲気は3秒で霧散した。
「よかないわぁぁ! 帝! 何ですかそのすごいのってのは!」
「きゃははは! しーらなーい!」
「帝ぉぉぉ!」
軽く流す帝と征夷大将軍に対し、左大臣は大いに頭を悩ませるのであった。
朝の潮風が甲板を吹き抜ける。
島が見えたとはいえ、今すぐ港に到着するというわけでもない。
もう少し惰眠を貪ろう、と踵を返したところで、視界の端に赤色を見つける。
「マリ――」
ア。
と声を掛ける寸前で躊躇った。
マリアは何やら珍しく真剣な顔で、桃色の宝石をつまむように眼前に掲げている。
「――それなら……ええ……わかってる。仕方ないわね。それじゃ、また」
ブツブツと一人声を発して、宝石をポケットにしまい込んだ。
「何してんだ?」
「あら、リュースケ君。丁度よかった。みんなを船長室に集めてくれる?」
「こんな早朝からか。緊急事態?」
「まあ一刻を争うほどじゃないけど、できるだけ早く相談したいのよ」
マリアはばつが悪そうに後頭部に手をやる。
「どうも今九州はマズイみたい。悪いけど、別の港につけることになりそう」
ジパングを目の前にして、また厄介な問題が立ち上がろうとしてる……のか?
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